あんなの日記

アラサーの気持ち

中学生の私

中学生のころの私は、とても良い子でした。

成績もよく、父と母のいうこともよく聞きました。

もちろん褒められることはなく、どんなに良い点数をとっても100点じゃないとダメ。100点でも、1回100点とったくらいではダメという感じです。

 

小学校高学年の時、友達や担任からいじめを受けふさぎ込んでいたところ、母がこのままではダメになってしまうと、中学から転校させてくれました。

小学校の校区外に家を建てた為というのが表向きの理由でした。

同時に弟も隣の小学校へ転向しました。

 

それから、ことあるごとに、「弟は前の小学校で上手くやっていたのにおまえのせいで転校させられて可哀想。それを一生忘れるな。」と言われて育ちました。

 

それでも、転校先は楽しく、いざこざはもちろんありましたが、1番好きな時代です。

友達もでき、恋愛もし、部活も頑張りました。

それで、この3年間は目立った虐待はなかったのです。

なんでもコントロールでき、人気者の娘。

 

私もこのままいうことを聞いて、父と母のやりたいようにしておけば辛いことや怖いことはなく過ごせると本気で思っていましたし、実際そうしていました。

 

このころから父と母は話さなくなりました。

価値観を合わせようとすることをやめ、一緒に食べていたご飯も別々になりました。

離婚も考えたそうですが、弟が家族は一緒がいいと泣いた為、離婚はなしになったそうです。

 

その後、だんだんと自然と母のそばにいないと食事が抜かれたり、機嫌が悪くなるようになりました。

中学の終わりごろは、父と話すだけで「あんたは父と血がつながってるからね~。一生関わらないといけないね~。」と母に常日頃言われ、自分が父と義家族にこんなことをされた、言われたということを毎日話してきました。

すこしでも同意しないと機嫌が悪くなり、ピリピリした空気になるので、弟と必死に話を合わせていました。

繰り返し、あんたには父の血が流れている。と言われ、素直に受け取っていた私は、そうなんだ。悪い血が流れているんだ。どうしようもないことだし、私はダメな人間になってしまうんだと思っていました。

 

それから、父とはほとんど話さなくなりました。

洗脳のような状態でしたが、周りの誰にも相談できず、むしろ相談するべきないですらないと思っていました。

母に家のことを外で話すことは禁止。家に友達を呼ぶことも禁止。と言われていました。

 

もちろん弟も同じ状況にありました。

幼かった弟の方が洗脳は強く、母が言ったことはすべて事実で母の意見は正しいと思わざるえない状況でした。

 

そして私は中学を卒業し、母の通っていた高校に合格。

 

母は、少しおかしくなり始めていました。

ある日の夜突然母が苦しい!!と倒れました。本気の演技でした。

しかし、それは仮病でした。倒れてすぐチラチラ私達の方を見る母を見て、あ…仮病か…と思いました。

私は母がどうしてほしいのか、何が正解なのか、目の前で何が起こっているのかわからず立ち尽くしていました。突然の意味不明な行動に。

弟はそばに駆け寄り、どうしたの?大丈夫?痛いの?と泣いていました。

 

すると、一通り私たちの観察を終えた母は、冗談だよ~とも言わず、起き上がり私達兄弟を自分の部屋の外に出しました。

弟は何が起きたのかわからず泣き、私は、間違った表情や対応だったのかと思い泣きました。

次の日から私は母に数日無視され、ある日突然、あの時お前は何もしてくれなかった、薄情な娘だ。と一言だけ言いました。

 

あーまた間違えてしまったのかと思いました。

これが一生言われるのだと。

 

中学の家族の思い出は、この話あたりが印象に強いですね

友達が、友達の母親との関係を授業で聞かれた際「親友みたいに仲良しです!」といっているのを聞いて、そんな母がこの世にはいるのか、私はこの質問になんと答えようと思いましたね笑

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