中学生の私
中学生のころの私は、とても良い子でした。
成績もよく、父と母のいうこともよく聞きました。
もちろん褒められることはなく、どんなに良い点数をとっても100点じゃないとダメ。100点でも、1回100点とったくらいではダメという感じです。
小学校高学年の時、友達や担任からいじめを受けふさぎ込んでいたところ、母がこのままではダメになってしまうと、中学から転校させてくれました。
小学校の校区外に家を建てた為というのが表向きの理由でした。
同時に弟も隣の小学校へ転向しました。
それから、ことあるごとに、「弟は前の小学校で上手くやっていたのにおまえのせいで転校させられて可哀想。それを一生忘れるな。」と言われて育ちました。
それでも、転校先は楽しく、いざこざはもちろんありましたが、1番好きな時代です。
友達もでき、恋愛もし、部活も頑張りました。
それで、この3年間は目立った虐待はなかったのです。
なんでもコントロールでき、人気者の娘。
私もこのままいうことを聞いて、父と母のやりたいようにしておけば辛いことや怖いことはなく過ごせると本気で思っていましたし、実際そうしていました。
このころから父と母は話さなくなりました。
価値観を合わせようとすることをやめ、一緒に食べていたご飯も別々になりました。
離婚も考えたそうですが、弟が家族は一緒がいいと泣いた為、離婚はなしになったそうです。
その後、だんだんと自然と母のそばにいないと食事が抜かれたり、機嫌が悪くなるようになりました。
中学の終わりごろは、父と話すだけで「あんたは父と血がつながってるからね~。一生関わらないといけないね~。」と母に常日頃言われ、自分が父と義家族にこんなことをされた、言われたということを毎日話してきました。
すこしでも同意しないと機嫌が悪くなり、ピリピリした空気になるので、弟と必死に話を合わせていました。
繰り返し、あんたには父の血が流れている。と言われ、素直に受け取っていた私は、そうなんだ。悪い血が流れているんだ。どうしようもないことだし、私はダメな人間になってしまうんだと思っていました。
それから、父とはほとんど話さなくなりました。
洗脳のような状態でしたが、周りの誰にも相談できず、むしろ相談するべきないですらないと思っていました。
母に家のことを外で話すことは禁止。家に友達を呼ぶことも禁止。と言われていました。
もちろん弟も同じ状況にありました。
幼かった弟の方が洗脳は強く、母が言ったことはすべて事実で母の意見は正しいと思わざるえない状況でした。
そして私は中学を卒業し、母の通っていた高校に合格。
母は、少しおかしくなり始めていました。
ある日の夜突然母が苦しい!!と倒れました。本気の演技でした。
しかし、それは仮病でした。倒れてすぐチラチラ私達の方を見る母を見て、あ…仮病か…と思いました。
私は母がどうしてほしいのか、何が正解なのか、目の前で何が起こっているのかわからず立ち尽くしていました。突然の意味不明な行動に。
弟はそばに駆け寄り、どうしたの?大丈夫?痛いの?と泣いていました。
すると、一通り私たちの観察を終えた母は、冗談だよ~とも言わず、起き上がり私達兄弟を自分の部屋の外に出しました。
弟は何が起きたのかわからず泣き、私は、間違った表情や対応だったのかと思い泣きました。
次の日から私は母に数日無視され、ある日突然、あの時お前は何もしてくれなかった、薄情な娘だ。と一言だけ言いました。
あーまた間違えてしまったのかと思いました。
これが一生言われるのだと。
中学の家族の思い出は、この話あたりが印象に強いですね
友達が、友達の母親との関係を授業で聞かれた際「親友みたいに仲良しです!」といっているのを聞いて、そんな母がこの世にはいるのか、私はこの質問になんと答えようと思いましたね笑
ピアノの思い出
虐待とは
繰り返しあるいは習慣的に、暴力をふるったり、冷酷・冷淡な接し方をすることである。
(wikipediaより。)
私は、小さい頃から虐待を受けていたという認識がなかったのですが、近年メディアでとりだたされるようになり、あー私は虐待を受けていたのかと5年ほど前に理解しました。
別に今更それをどうしようというつもりもありません。
ただ、気持ちを整理するのに文字にして書いてみようと思います。
私は、長女として生まれ、小さい頃はそろばんやピアノ、英語塾など様々な習い事をしていました。
それが普通だと思っていたし、大人になった今、やっていてよかったなと思うこともあります。
ただ、その中でもピアノをしていた時のトラウマがとても鮮明に脳内にあり、今思うと異常な光景だったなと…。
今回はその時のことを書いてみたいと思います。
私は幼稚園の頃からピアノに通っていて、恐らく母が通わせていたのですが、今思えば隣の家のお姉ちゃんの影響だったのだと思います。
私が通っていたピアノ教室は基礎から応用までしっかりマンツーマンで教えてくれるところでした。優しく明るい先生のことが好きでした。
冬にはクリスマス会がありとても楽しかったのを覚えています。
そこのピアノ教室には、年に1回発表会がありました。
幼稚園生から大人まで、ピアノからダンスまで様々な発表をする会です。
地元の大きなホールを貸し切って、いくつかの教室が出ていました。
300人はゆうに超えるお客さんが来るので、みんなとても張り切ります。
その発表会前は、家でも練習を毎日1時間していました。
でも、私はその練習がとても嫌でした。そばに母か父がぴったり張り付いて、1音でも間違えると怒られ叩かれ、抑揚がないとなじられ、才能がないんだから練習するようにと強制されていました。
分かります。失敗する娘を田舎の発表会で見せたくない、本人のためにも練習させたい。でも、1度も褒められることがないまま毎度本番です。
ましになったんじゃない?が一番良い言葉でした。
小学校中学年の頃、その練習が辛くてただピアノの前に立っていたことがありました。
早く練習しなさい!!と怒鳴られ、それでも立っていました。
恐らく逃避行動のようなもので、意識ここにあらずの状態でした。
その時、父が台所へ行き、まな板と包丁を持ってきました。
そして、机の上にあった布のおしぼりを「練習しないなら手はいらないな!こうやって手を切ってやる!!」と丸くしたおしぼりを力で押し切り輪切り。
私は号泣していたと思います。そして、恐怖で動けなくなっている父のもとへ引っ張られていき、まな板の上に私の手を置かれました。
「ピアノの練習やらないんだな!!!手はいらないんだな!!」
包丁でトントンおどされ、大号泣の私。
それをただ真正面で見てる母。何も聞こえないよう耳を塞ぎ泣く弟。
これが私のピアノの家での思い出です。思い出というかトラウマですね。
結局小学校を卒業するまでは続けましたが、中学に上がる際、部活を理由に辞めました。
それから数年は、包丁を父が握る度、身体が硬直したのを今でも鮮明に覚えています。
あー、ひどい父と母だったな。と今は思いますが、子どもの頃は逆らったら殺されるか、痛い思いをする。それだけが染みついていました。
きっと他のご家庭はこんな思い出ではないんだろうと思います。
いいなぁー
もし、自分の子供がピアノを習いたいと言ったら、のびのびと音を楽しんで欲しいなぁ。
機能不全家族?
前回の記事で、どこにでもある一般家庭の長女と書かせてもらいました。
家族構成は、父・母・私・弟の4人家族です。
もうすぐ、私は結婚するので戸籍上はここから外れる予定です。
さて、そんな家族ですが、家族として上手くこれまで機能してきたかというとそんなことはありません。
父は、私がうまれる前もうまれてからも不倫をしています。母には生活費を渡さず経済的DVのような状況です。
ただ、家族の中で1番マシなのは父です。この時点でどうかとは思いますが…。
母は、自分の思い通りにならないと虐待をする人でした。私はよく反抗し、叩かれたり食事を抜かれたり、自分のものを粉々にされたりしました。
もちろん母は父のことは大嫌いです。ここ15年ほど口をきいていません。
弟は、そんな私の様子を見て、母親に怒られないよう気に入られるように育ち、今は立派な父嫌い。母はいうことをよくきく弟が大好きです。
私は、大学生になり家を出てから人生はこんなにも広く道があり、自分の家族はどこかおかしいことに気づきました。
家族愛について考えたこともなく、できるだけ早く家を出たいとそればかりを願ってきました。
そんな私がいよいよ、別の家庭を持とうとしています。
有難いことに、旦那は私の家族のことを理解してくれています。
しかし、いざ結婚する日が近づくにつれ私自身家族を作ることに怖さを持ち始めました。
母のようになったらどうしよう。旦那が父のようになったらどうしたらいいんだろう。
体調不良の時や、PMSの時にふと考え、結婚を躊躇してしまいます。
そんな状態でも挨拶の日取りや婚姻届けの記入は進み不安と期待が入り混じっています。
あーみんなこんな感じなんでしょうか…。